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きゃの録

きゃのの備忘録。

好きなものを好きでいるために

つれづれ



昨年、突然原点に戻り昔好きだったものに打ち込み始めた私なのだけど、今回に限らず好きになったものには毎回と言っていいほど、この想いに直面する。

これは何も好きなものに限らず、いろんなことに当てはまると思う。
好き!と思ってただ楽しんでいるうちはいいのだけど、深く知っていくうちに周りが見えてきて、突然色褪せていくような感覚。

昔よりは少し客観的になったものの、このモヤモヤとした想いを自覚する度に「またか…」と思い、成長もできていないような気がしてがっかりする。

そして、落ち着け落ち着け、冷静になれ。私は何が好きなんだっけ?無駄なものを捨てよ。と唱えられるまでにはなった。
心は凹んだままなのだけど。

 

number.bunshun.jp

多かれ少なかれ人は「評価」というものを気にしながら生きている。「評価」が欲しいために人一倍勉強もすれば、努力もする。「結果」へと繋げるためにはそれしかないことを知っているからだ。

 だが、「結果」と「評価」は似て非なるものである。
「結果」は自らの証と言えるが、「評価」は第三者が下すものだ。

 自らコントロールできない「評価」を気にしたり、追いかけるのではなく、自分がコントロールできることだけに集中する。これがメジャー150年近い歴史の中で30人しかたどり着けなかった3000安打を達成したイチローからのメッセージ。


私の場合、このモヤモヤの大半はこの第三者と評価を気にすることから生まれる。
あの時もこの時もその時も、それさえなければどんなに楽しんでいられたか。
そして、最終的にこの気持ちを見なくてもいいように、その好きなものから離れてしまうことも少なくなかった。

自分もただの第三者になって、すごい人を見て楽しんでいた方が楽なのだ。

でも結局、ただ臭いものに蓋をしただけ。
だから、何度も何度も訪れる。自分が第三者や評価を対象にしている限り。
本当の問題は自分の見方であり、焦点を自分に合わせない限り。

自分は、経験値1の木の棒でラスボスに挑むような無謀な想いを抱いていることがおそらくままあって、そこにすぐ到達できないと分かると諦めたり嘆いたりしているんだと思う。

ちなみにRPGは苦手だ。なぜなら育て上げる過程が面倒くさいから。
何だかここに全部集約されている気がする。




SNSや周囲の声に疲弊している暇があるなら、その時間を自分ができることに充てれるようにシフトしていきたい。


私が好きなバンド・打首獄門同好会は結成して10年以上になるバンドだけど、私が知ったのはつい昨年。
その10年以上を打首さんが頑張って活動してくれていなければ、私は出会うこともなかった。そう思うと、その知らない10年が悔しくもあり、でも継続してくれて本当にありがとうという気持ちになる。

そしていま、じわじわと広がってるその人気を見ると、「長く続けること」の大切さを教えられている気がしている。



もう、言い訳して好きなことからは逃げたくない。と強く思うのだ。